かっきーの雑記(仮)

あちらこちらで興味が湧いたものをとりあえず書き留めておく用。

博士の愛した数式

原作も感動したが、映画もなおいっそう素晴らしい。

事故の前、博士と未亡人は許されぬ愛に堕ちていた。原作ではほのめかされたにすぎなかったが、映画では、未亡人の仕草や部屋の小道具などの描写によってこの事実が表現され、そしてついには未亡人自身の口から語られる。
二人の間には子どもができ、何らかの事情でその子を失ったことも窺い知れる。それゆえ、博士がルートに対して異様なほど愛情を注ぐ理由も腑に落ちる。

逆に、原作にはないが映画にはある印象に残るシーンとして「薪能」がある。観ているときは、映像的な効果を狙ったのだろうな~という程度にしか感じなかったのだが(亀井広忠さんが出てる!という点には嬉しくなったけど・汗)、どうもほかに大事な意味がありそうにも思える。で、観賞後ネットで調べてみると、この点につき、やはりこの作品の鍵を握るオイラーの公式と絡めて見事に考察されたブログを発見した。

能「江口」はオイラーの公式の「解」だった
能は「江口」という題目である。諸国一見の僧が江口の里を訪れ、西行法師と遊女とのやり取りを思い出す。そこへ里女、実は遊女・江口の君の幽霊が現れ、そのときのやり取りを回想する。西行法師は一夜の宿を遊女に求め、断られる。しかし、それは遊女が出家に対して世捨て人を思う心からで、宿を惜しんだのではないと弁明する。今江口の君はそのときを回想し、仮の宿であるこの世への執着を捨てれば、心に迷いも生じないし、人との別れの悲しさもないと仏教の悟りを開く。そしてその姿は普賢菩薩と変じ、西方浄土に去っていく。そういう「筋」であるが、講師は「後半は言葉では説明できない。」という。たから少し長いと思える能の場面をじっくり見て感じるしかないのである。

映画で使われた能の場面は後半のクライマックスである。地謡は以下の如し。
思えば仮の宿に、
心となむ人をだに諌めしわれなり
(映画ではここで二人は手をつなぐのである。)
これまでなりや帰るとて、
即ち普賢菩薩とあらわれ、
(能ではここでシテは普賢菩薩になる)
舟は白象となりつつ光とともに白砂の
白雲にうちのりて西の空に行き給ふ
ありがたくとぞ覚ゆる
ありがたくこそは覚ゆれ

オイラーの公式のe(πi)+1=0は調和の0悟りの0でした。
能「江口」はオイラーの公式の「解」だったのです。
悟りを開いたのは浅丘ルリ子です。
だから彼女は「仮の宿」という執着を捨て、木戸を開いたのです。
KUMA0504さん「再出発日記」

なるほど!目からウロコである。これには唸った。幻想的な能楽の調べの中にそんな隠されたメッセージがあったとは!
 
そうして、無限に循環する2つの無理数と恥ずかしがり屋の虚数は「1」をプラスしただけで奇跡的にひとつの地点に着地し、調和する。ルート教師が説明した通り、博士が示したオイラーの公式の中に答えはあった。みなそれに導かれ従った。

最後のウィリアム・ブレイクの詩も実に効果的だ。ルートが授業の最後に示した「時は流れず」というフレーズとあいまって、一瞬を、この時を永遠のものとして生きる崇高さを讃えるのだ。
告白すると、勝手にほんわか映画だと決めつけてていた私にとって、重厚なテーマ音楽が何かそぐわない気がしていたけど、この詩を聞いた後に流れたエンディングですべてが氷解し、心が震えた。

原作の持つ静かであたたかで美しい雰囲気をそのままに、その上で、映画では監督が解釈したエッセンスが明示的にはときには黙示的に力説されている。しかも、イメージにピッタリ合った役者さんたちがその世界観を味わい深く演じ、極上の作品へと昇華する。これこそ原作ものの映画化の醍醐味だ。

この映画は、たしかに静かで、それでいてあたたかい気分にさせてくれる美しい作品だったが(それだけでもじゅうぶん満足であるが)、それ以上に、実はものすごく深~い作品かもしれない。

博士の愛した数式
小川 洋子
4101215235